『三つの小さな王国』スティーヴン・ミルハウザー 【6】

「王妃、小人、土牢」の後半です。

王に仕える数多い忠実な僕(しもべ)の一人に、スカルボという名の小人がいた。

「スカルボ」という章の冒頭。この小説には、固有名詞が全然出て来ないんですが、ついにここで固有名詞が登場です。スカルボは、狡猾で他人の気分の変化を見抜く能力に長けた人物。要するに、力がない替わりに、知恵と人間観察を駆使し影で謀略をめぐらすタイプのようです。王はスカルボに王妃と辺境伯の関係を密偵するよう命じます。そして、スカルボは次第に王妃に取り入っていく。
で、またちょっと混乱。前回、「土牢の番人」の最後にチラっと出てきた「小人」は、このスカルボのことを指しているんでしょうか。それとも「小人」一般を指しているんでしょうか。
さらに、読み進めていくと、「物語」という章にこんな一節が出てきます。

実際的な市民であり、几帳面に帳簿をつけ、夜は早くに寝床に入るけれども、そんな私たちとて、幼いころはおとぎばなしを聞いたのだ。それらの物語は、文字に留められることこそなけれ、歪んだ、あるいは断片的な形で、酒場や祭りの芝居などで耳にされる歌の中に突如現われたりする。そうした幼いころの物語のなかで、何よりも中心を占めているのが、城をめぐるもろもろの物語である。

この小説の構造がなんとなく見えてきましたね。ここでは、共同体の持つ伝説とかお伽話について語られているわけです。そして、「王妃の物語」は「私たち」の町に伝わるそうしたお伽話の一つのようです。このあたりから、この小説は「お話についてのお話」の様相を呈してきます。何だかややこしいことになってきました。前回、この小説の短い章を僕は3つに分類しましたが、次第にそれぞれの章が侵食し合い分類は意味をなさなくなってきます。「私たち」が語っているのはお伽話なのか? それとも現在の町や城の様子なのか?

そして、もし本当に私たちの物語が城の住人たちに知られているのだとしたら、かくも彼らを楽しませるそれらの営みを、住人たちは模倣するようにならないだろうか? そうして彼らの生は次第に、私たちが想像した伝説の生に似てこないだろうか? これが真である限りにおいて、私たちの夢は私たちの歴史だと言うことができるのである。

「昔々」の伝説は、「私たち」が暮らす現在のいたるところに顔を出します。この小説もまた、「J・フランクリン・ペインの小さな王国」同様、虚構と現実が溶け合っていく話のようです。そしてその両方に不気味な影を落とすのが「土牢」です。
徐々に物語は、地下へ地下へと降りていきます。さあ、王妃や小人の物語の行方は? 町と城の関係は? って、この先はもう書かないほうがいいでしょう。


このように細かな断片を重ねていくスタイルは、ミルハウザーの小説によく見られる手法です。そこに、「時制の使い分け」「一人称複数の視点」「固有名詞の排除」など、語りの仕掛けを張りめぐらしている。非常に緻密です。
何だか、この小説自体が一つの「城」のように思えてきます。まさに「小さな王国」。螺旋階段を下っていくように、ぐるぐる回りながら物語が進んでいきます。そして、地下の土牢に近づくにしたがって、物語を構成していた秩序が混沌としてくる。今どこにいるかわからなくなるような、目まいに似たものを感じます。
ということで、「王妃、小人、土牢」、読了です。