『三つの小さな王国』スティーヴン・ミルハウザー 【4】

「J・フランクリン・ペインの小さな王国」第V章、最終章です。

フランクリンは、完成した『真夜中のおもちゃたち』をフィルムにしてもらうため、現在はアニメーション制作会社で働くマックスのもとを訪れます。そして12箱分のドローイングを、彼に預けます。

「心配するな、僕が命を賭けて護るから」とマックスが言った。そしてフランクリンが花屋の前を過ぎて暑い日なたに出ると、けたたましい車のクラクション、削岩機の轟音。黒や赤や緑の自動車に注ぐ陽光のきらめき、ガラス窓に映るせかせか歩く人々の像、そしてガソリンやクッキーのつんと鼻をつく匂いに彼はすっかり驚いてしまい、まるでマックスへの訪問が、地下の暗い巣穴で、ずっと昔いつか別の人生で起きたように思えた。

またしても、ミルハウザーの「列挙癖」が表れているシーン。ここで僕が気になるのは、「ふと」外界に気づくあり様です。フランクリンが没頭していたのは、モノクロでサイレントのアニメーションです。そこから我に返ると、一気に音や光や匂いが溢れ出す。まるで、夢から現実に引き戻されたみたいな書き方です。この小説では常に、夢と現実がせめぎ合い溶け合っているような書き方がされているんですよ。「別の人生」、つまりもう一つの世界がいつもすぐ隣にある。夢が現実を侵食し、現実が夢に雪崩れ込んでくる。
フランクリンは、新聞社の上司クロールから、仕事に支障をきたすのでアニメーション制作を止めるよう命令されます。さらに、妻コーラは彼に愛想をつかし、家を出ていってしまいます。
彼の精神は一気に追いつめられます。

振り子やむき出しの歯車の下の、鏡のような底面に彼は鍵を戻し、ガラスの扉を閉めた。時計がかちかち鳴り、振り子が左右に揺れた。そして彼は安らぎを感じた。時計がかちかち鳴り、振り子が左右に揺れるなか、骨の奥深くに安らぎを感じた。振り子がゆっくりと左右に振れた。時計がかちかち鳴った。

この執拗なリフレインはどうでしょう? まるでレコードの針とびです。「安らぎを感じた」なんて言ってますが、なんだか強迫じみてる。夢の中で何度も同じ行為をなぞっちゃうような、そんな不安感。かちかちかちかちかちかちかち。
そして、ついにフランクリンは、またしても秘かにアニメーションを作り始めます。それがどんな作品なのか、例によってここには書きません。そして物語は結末で、とても美しく感動的なシーンを迎えます。でも、それもここには書きません。ここまで読み進めてきた僕にとっては、とても納得ができ、かつ深い余韻を残す終わり方です。
最後は、フランクリンのアニメーションに対する想いを述べている箇所を引用して終わりたいと思います。

いわゆる写実的な映画に比べれば、アニメーション漫画の方が、映画の虚偽をずっと正直に現していると言える。なぜなら漫画はみずからの虚構性に歓喜し、ありえないものに酔いしれるジャンルだからだ。ありえないものをみずからの仲間と唱え、不可能なものをその至上の目的として賞揚し、不可能性のなか、現実の否定のなかに、おのれのもっとも深遠な存在理由を見出している。アニメーション漫画とは、不可能性の詩にほかならない。

そしてこれは、この小説にもぴったり当てはまります。


ということで、「J・フランクリン・ペインの小さな王国」、読了です。
中編というボリュームが、この小説には見事に合ってます。細々したささやかなものが集まって、「小さな王国」を作る。つまり小宇宙ですね。
この小説の半ばあたりに雪の結晶の描写がありますが、この小説もまた、小さな分子がつながってできた結晶のようです。そしてその細部が、どれも小説全体の相似形のように思える。雪の結晶同様、フラクタル構造になっているような気がします。宇宙は小さな宇宙の集まりでできていて、その小さな宇宙はもっと小さな宇宙の集まりでできていて、以下つづく…。
例えば、第I章には、このあと出てくる様々な出来事のカケラがこっそり潜んでいます。こうしたさりげない伏線、緻密な構造、硬質な文体、濃密なイメージに、読んでいて何度も陶然とする瞬間がありました。
これは、傑作と言っていいんじゃないかな。僕の好み、どんぴしゃりです。すんごいよかった。