『天の声・枯草熱』スタニスワフ・レム 【16】

「パリ(オルリー―ガルジュ―オルリー)」の章、最後までいきます。
オルリーは空港のある場所、ガルジュはバルト博士の家のある場所です。ということで、この章のタイトルから、「わたし」は空港へ戻るんだろうなということが想像できますが、まずはバルト博士の家でのできごとから。


博士は友人たちを家に招いてパーティを開きます。話題の中心はもちろん、元宇宙飛行士の「わたし」と、彼が調査している事件について。
ということで、またしてもディスカッションタイム。事件の謎をめぐり、あーじゃこーじゃといろんな意見が飛び交います。どれが正しいかというのは、僕にはわかりません。どれもがもっともらしく、どれもが嘘くさい。

全体として知識の進歩とは、世界の単純さを少しずつ放棄する過程以上の何ものでもない。人間はすべてが単純であることを願うものだ。たとえそれがまた、神秘的なものでなければならないとしても。神、それも単数形の神の一つのタイプ、自然の法則の一つのタイプ、全世界(ウニウエルスム)における理性の発生の一つのタイプ、等々のように。(中略)しかし、、われわれが考慮にいれようとしなかった多様性がわれわれの先入観を打ち破りつつある。

これって、ひょっとして「複雑系」ってやつじゃないかな? いや、勘で言ってるだけなので違うかもしれませんが。
まあ、とにかく多すぎるんですよ、何もかもが。一連の事件におけるたくさんの共通項、それをめぐるたくさんの仮説。フツー、この手のミステリーだったらもうちょっと手がかりは少ないんじゃないかな。そのわずかな手がかりをもとに、じわじわと真相に近づいていく。Aという手がかりを元に、Bという手がかりにたどり着き、そこからCという手がかりを発見し、という具合に曲がりくねった一本道を進んでいく。
ところがこの小説の場合、一気に手がかりを山ほど放り出すんです。そして、そのどれが重要なのかもよくわからない。進むべき方向性が見えない。道なんかどこにもない原っぱに立ってるみたいな気分です。


「わたし」は、もうこの件から手を引こうと決心します。パーティの翌日、エッフェル塔を真下から眺めながら思います。

もし火星に行って戻ったのなら、一生涯わたしは火星のことをくよくよ考え込んだりすることもなかっただろう。

軍隊ではケガをして奇襲作戦に間に合わず、宇宙飛行では枯草熱のため火星に行けず、そして今回も、事件の全貌にはたどり着けない。ありえたかもしれない可能性にことごとく裏切られるのが、この主人公です。
しかし、本当にそうなんでしょうか? 僕には、この事件そのものが宇宙旅行のように思えます。見慣れた日常が、事件のせいで何か異質な意味ありげなものに見えてくる。先ほど「道なんかどこにもない」と書きましたが、まさに無重力、上下左右のわからない宇宙空間のようです。未知のものに飛び込んでいこうとしてきた「わたし」は、この複雑で混沌とした世界に耐えられなくなっているんでしょうか。
さらに、フランスで同様の症状を起こした事件が起こり、「わたし」とバルト博士は、それについてのビデオを延々と見せられることになります。この小説の特徴として、事件の描写が異様に長いということが挙げられます。複雑さをそのまんま投げ出すように、瑣末なこととひょっとしたら重要かもしれないことがごちゃ混ぜで語られます。


そして、一切から手を引いて空港へ向かう「わたし」に、ついに危機が迫ります。皮肉にも、ようやく偽装作戦が身を結ぶことになるのです。こっからは、一気に読まなきゃダメ。彼の周りの世界が延々と描写される様を、じっくり読まなきゃなりません。どれもこれもが意味ありげであり、意味なさげです。「わたし」は世界のすべてに反応するかのように、ビリビリと神経を尖らせていきます。どんどん息苦しくなってきます。世界の複雑さに、全身が開かれちゃったような感じです。
単純なものは理解しやすいんです。しかし、この複雑な世界を読もうとすることは、しんどく不安なものです。そもそも、「読む」ってのは、その混沌としたものに、ある道筋を与えるっていうことです。解釈しようとすることです。でも、ここではそうならない。世界の諸々全部が等しく迫ってくるんです。
事件は、最後にちゃんと解決を見るんですが、もちろん解決をここに書いたりしないほうがいいですね。ラストにはちょっとした「メタ」的仕掛けがありますが、それも読んでのお楽しみにしておきましょう。


ということで、『枯草熱』、読了です。お疲れ様でしたー。