『天の声・枯草熱』スタニスワフ・レム 【15】

「パリ(オルリー―ガルジュ―オルリー)」の章のつづきです。
主人公の「わたし」は、空港のあるオルリーを出発しガルジュにあるバルト博士の家を訪れます。そこで、事件のあらましを伝えたところまでいきました。


で、ここからは20ページ以上にわたって、事件について博士とのディスカッションが繰り広げられます。

「わたしは適度な楽天主義者(オプティミスト)でして。少なくとも、これが犯罪なのか、それとも事故なのかぐらいは確かめられると思っていました」
「適度どころか、たいした楽天主義者(オプティミスト)でしたな!」

そう簡単に真相がわかるわけがないと言わんばかり。こんな調子で、博士は次々といろんな仮説を立ててはそれをひっくり返していきます。ここいら辺は、この前読んだ『天の声』を思わせますね。どちらも、ひとつの謎を前に、それをどう「解釈」するかがテーマになっています。そして、知性ある人間がその「解釈」に次々とダメ出しをしていくわけです。まったく、博士ってのはややこしい人たちです。

まず最初にすべきことは、犠牲者を十把一絡(じっぱひとからげ)にして扱うのを止めることです。一連の事件をひとつひとつ独立させて考えるのです。その点では、あなたたちのやり方は、きわめて恣意的でしたね。

これは博士のセリフ。つまり、事件同士を関連づけて考えているけど、それは単に「解釈」の問題に過ぎないのではないか、ということです。まさに『天の声』のような展開です。
これについて、「わたし」はこう反論します。

それは止むをえないことです。そのことでわれわれを非難されても、それは未知の現象を調べる古典的なジレンマなのですから。未知の現象の範囲をしかるべく定めるには、原因となる機構(メカニズム)を知らねばならないし、原因となる機構(メカニズム)を知るには、現象の範囲をしっかりと定めなければならないのです。

レムの小説を読んでいると、常に、「ちゃんと読めているんだろうか」と不安になります。宇宙飛行士、枯草熱、テロ、謎の怪死と、魅力的な要素がちりばめられていますが、それを「読む=解釈する」のは読者です。そこで、ひょっとして「恣意的な解釈」をしているんじゃないかという疑問が頭をよぎる。これは、主人公の「わたし」が陥っているジレンマとよく似ています。
ん? もしかしてこれは、「読む」ってことについての小説なのかも。『天の声』で、博士の思索の試行錯誤に付き合わされたように、この『枯草熱』では、「わたし」がもやもやとした事件をシュミレートしながら手探りで進んでいく過程に付き合わされます。探偵の推理ゲームを外から眺めるようにはいきません。一緒に、この謎の中を歩かされる。そして、小説を「読む」ってのは、そういうことなんじゃないかなと。


では、恣意的かもしれないと指摘されながら「わたし」が挙げた、この事件の死者たちの共通点を確認しましょう。
・50歳前後の男性
・背はやや高めでがっしりした体格
・独身、もしくはやもめ
・花粉症などのアレルギー体質
大事かどうかはわからないけど、こんなのもあります。
・イタリア語を話せない
・糖尿病ではない
・禿げている
ついでに、死に方の共通点もおさらいしておきます。
ナポリの湯治客で
・滞在数日後に狂気に駆られ
・自殺、もしくは事故死する
さあ、その原因は? って、僕にわかるわけはないですね。さっぱりです。もちろん、「わたし」もわかってはいません。さっぱりです。


ともあれ、博士は調査に協力してくれるようです。そして、「わたし」は、博士の家に逗留することになります。
食事の席では、博士の祖母が「わたし」にこう話しかけたりします。

年をとるってことはねえ、ジャン、もうありあまるほどの経験をつんでしまっているってことなの。(中略)あなたはなにもそんなことを知らないでしょうけど、人生の七十歳と九十歳のあいだには、それは大きな違いがあるものなのよ。根本的なね。

そして、僕は、主人公の50歳手前という年齢がまだ気になっています。


ということで、今日はここ(P331)まで。あとは、一気に読んじゃうかも。