『天の声・枯草熱』スタニスワフ・レム 【5】

一日休みましたが、第4章、いきます。


アメリカ合衆国は、マスターズ・ヴォイス(MAVO)計画を国家機密として極秘裏に進めます。そしてその〈計画〉の研究施設へ、我らがホガース教授が招かれます。いよいよですね。
この研究施設はネバダ州にあり、砂漠の真ん中の核実験センターだった場所を利用して作られています。機密を守るため、世間から隔絶した場所が選ばれたわけです。施設内の至るところに盗聴器が仕掛けられ、一度この計画に関わったら、それについて口外することも容易に脱けることもできません。
この章では、その施設での様子がかなり念入りに描かれいます。ただし、ここでも研究の内容はほとんど語られません。またしても、先送り。もうこの「じらし」には慣れっこですが。
でも、この章はすごく面白いです。同僚に対する辛辣な人物評、そして科学者同士の対立や政府の無理解への風刺などなど。もちろん、まわりくどいあてこすり続出。最初は面倒くさそうな人だなあと思っていましたが、だんだん教授のことが好きになってきました。「憂鬱な皮肉屋」と呼びたくなります。


まず、〈計画〉行政部門の責任者、言語学者のバロインはこのように描写されます。

彼はなにを喋ってもかならず括弧でくくったような話しかたをした。不自然ないかにもわざとらしい、誇張した表現で。そのためにわざと――その都度かまとめて一度にかは別として――あらかじめ考えておいた役割を演じているようだった。だから付き合いが短く彼のことをよく知らないと、なにが本当でなにが嘘なのか、いつ真面目な話をしており、いつ、ただ冗談をいって楽しいんでいるのか、さっぱり見当がつかず、面喰らうことになる。

自己韜晦というのかな。すべて演技しているように見せることで、本心の在り処をわからなくさせるタイプ。さらけ出すことを恐れるあまり、それと気づかれないようふざけてみせる人物といったところでしょう。わりと政治力もありそう。

次は、〈学術評議会〉に籍を置く、法学博士のイーネイ。バロインとは友情を育んだ教授も、このイーネイは好きになれなかったみたい。

というのは、実際のところ彼は、黙ってほほえんでいる〈計画〉のspiritus movens――動く魂、早い話が、優雅な手袋をはめた官憲だったからだ。(中略)そしてかりに侮辱されたところで、それは彼個人に向けられたのではなく、彼が代表している権力にだということがわかっている。したがって、彼にとって非常に便利な権力と自分を一体視できるのは、そうした没個性な立場が、永遠に保障された優越感を与えてくれるからだ。

権力に支配される側でありながら、何故か権力側の立場に立って考え、それを代弁するような行動を取る人ってのはいるものです。スケールの小さい例えですが、学級委員に立候補するようなタイプでしょうか。たぶん教授は、こういった自ら思考しない人間を心底軽蔑しています。この先、教授とどんな風に対立するのかが、ちょっと楽しみ。

そして、前章にも登場したラッパポート博士。彼もまたイーネイに対する軽蔑を隠さない人物でした。そして、教授にとっては愛すべき友人として描かれます。
例えばラッパポートは、19世紀の本に書かれたエピソードをこんな風に教授に紹介してみせる人物です。

それはあの時代にふさわしい格調高い文体で書かれたすばらしい一節で、人間は、己の使命に都合のいいように知恵を働かせ、いかにして豚の貪欲な食欲を利用して、それが松露を掘りだしたとたん、すかさずどんぐりの実を投げ与えるかを語っていた。
ラッパポートに言わせると、学者をそうした合理的な方法で飼育することが期待されていたし、今まさにそれが実現され、われわれの例がそれを実証してくれるというのだ。

「松露」ってのはトリフのこと。そして、学者たちはどんぐりを与えられた博学な豚だというわけです。蟻の次は豚ですか。辛辣。
また、あるとき、ラッパポートは教授に自分の出自を打ち明けます。どうやら彼はユダヤ人であり、ドイツ人による大量虐殺の様を目の当たりにしたとのこと。そして教授は、彼から聞いたその話を4ページにも渡って記しています。

ここでは〈計画〉の歴史を順を追って書くといっておきながら、たしかに本題から外れて先に別のことを書いている。だがそれは、そうする必要があると思ったからだ。

「そうする必要」に関しては、これ以上書かれていません。何故教授は、この手記に直接関係のない戦時下のエピソードをわざわざ記したのでしょうか。


研究施設には3000人に及ぶ学者が集められ、人文科学者と自然化学者がそれぞれ「人間屋(ヒューム)」「物質屋(フィズ)」と隠語で呼び合っています。そして、この二つの集団の間には根深い対立があります。
さらに、施設のあちこちに、核施設の名残である標識や計器が残されています。ここが原子力の驚異にさらされていた場所だということを、嫌でも意識せざるを得ません。
想像してみましょう。世間から隔離され核開発の亡霊がチラつく施設で、学者同士小競り合いをしながら、政府から常に監視されている。しかし、研究の先行きはまったく見えない。ここが、息苦しく陰鬱な場所であることは間違いないでしょう。
しかし、教授の憂鬱の源はこの最悪の環境にだけあるのではありません。

最初は、そこの条件がとても耐えられそうには思えなかった(中略)。だが、ゆっくりと辛抱強くやれば、法王選挙会議にだって人間の肉を食わせられるものだ。人間が心理的に順応するメカニズムは、実に仮借ない。

すさまじい比喩です。シビれるわ。僕はクリスチャンじゃないからわかりませんが、これはかなり「悪魔的な」フレーズなんじゃないかな。「マスターズ・ヴォイス=神の声」を研究してるってのに…。

どんなことにも順応し、その結果ありとあらゆることを受け入れてしまうわれわれの才能は、人類のもっとも危険な能力のひとつである。融通無碍な適応性を持った造形物が、明確な倫理をもちうるわけがないのだ。

この章のラストの文章です。これは、マスターズ・ヴォイス計画についてだけ言っているのではありません。ここが、元核施設だということを思い出してください。そして、何故ユダヤ人虐殺について教授がわざわざ書かなければならなかったのか、ということに思いを馳せてください。
苦々しい教授の表情が浮かんでくるようです。


というところで、今日はここ(P84)まで。ようやく、全体の1/3を過ぎたくらいかな。