『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【7】


更新が滞ってる間に、第一部を読み終えてしまいました。なので、駆け足でだだーっといきます。


「18」の章。
冒頭から。

船旅も終え、戦争や奴隷制、首尾よく遂げた観測、聖ヘレナの風、同胞達から浴びせられる慣れぬ敬意等々に五感も呆然となったメイスンとディクスンは、くるくる回る独楽のように倫敦の街を、大抵は二人一緒に彷徨い、時折ドスンとぶつかっては又サッと離れる。(中略)
ディクスンはじき北へ、とにかくステーンドロップの〈陽気な坑夫(ジョリー・ピットマン)〉亭に戻ることのみ念じつつ向う、――故郷から離れるにつけ彼(か)の暇人達の溜り場が益々の魅惑と共に思い出されるに至ったのである。一方、倫敦に留まったメイスンは、何をしたらよいのか今一つ判らない。息子達は当然恋しいが、反面、再会が怖くもある。義理を果しに彼方此方(あちこち)挨拶に回ると、正(まさ)しくボンクの予言した通り、様々な「幹部机(デスク)」に座った人びとから質問を受ける、――海軍、東印度会社、王立協会の官吏だの、王の臣下からロッキンガムの自由派(ホイッグ)まで物好きの議員連中だのが、野菜の供給、或いは道幅、更には沿岸の備砲、市民の士気、奴隷の不穏等々に関して探りを入れてくるのである。

え、もうロンドンに帰ってきちゃったの? 例によって、聖ヘレナの風上から逃げ出したメイスンとケープ・タウンに戻っていたディクスンとの再会のシーンはありません。ピンチョンは、そういうストーリーの節目となるようなシーンを平気ですっ飛ばします。なので、読んでると「いつの間に、そんなことになってんの?」と、戸惑うこともしばしば。
しかも、ここまでのストーリーを「戦争や奴隷制、首尾よく遂げた観測、聖ヘレナの風、同胞達から浴びせられる慣れぬ敬意」と、あっさり要約しちゃう。確かに、起きた出来事を並べていくとそういうことになるんでしょうけど、僕なんかここまで読み進めるのに、3ヶ月弱かかってるんですよ。それが、たったこれっぽっち?
結局、ストーリーはその程度のものなんですよ。ただしそこには、膨大な脱線と蘊蓄と冗談がたっぷり詰め込まれている。英国博学犬やら、時計同士の会話やら、巨大チーズやら、本筋とは関係なさそうでありそうなエピソードが、次々に出てくる。そういうものだと思って読んだほうがよさそうですね。
ということで、メイスンとディクスンはあっさり別れて、ディクスンは故郷へ向かい、メイスンはロンドンに留まります。メイスンは、レベッカのことを思い出したり、亡くなったばかりの師ブラッドリーの葬儀に向かったり。メイスンとレベッカ、ブラッドリーとその妻スザンナの間には、いろいろ複雑な過去があったようですが、ほのめかされるだけでよくわかりません。


「19」〜「21」の章。
故郷に戻り、酒場に入ったメイスンを待ち受けていたのは、ブラッドリーが英国に太陽暦を導入するのに一役買ったという話題。太陰暦から太陽暦に変わる際、イギリスではカレンダーの日付を調整するために、9月2日の次は9月14日と定められたそうです。しかし、柴田さんの註によれば、「民衆からの反感はきわめて強かった」とか。酒場の客は、「日歴(カレンダー)から十一日を盗んだ」とブラッドリーを罵ります。そしてメイスンは、当時、父親と交わした会話を思い出す。

「ふむ、だがな息子よ、――その十一日はどうなるんだ? お前、判ってるのか? お前の話を聞いてると、あっさり……なくなっちまうってことか?」(中略)
「元気出してよ父さん、いい面もあるんだから、――あっと云う間に十四日まで飛べて、何の苦労もなしに十一日得するんだよ、その間(かん)歳も取らない訳で、――要するに十一日ぶん若くなるんだよ」
「お前、頭いかれてるのか? 儂の誕生日が十一日早く来ちまうってことじゃないのか? 馬鹿野郎、そりゃ十一日ぶん老けるってことだ、――老けるんだよ。」

うー、ややこしいなあ。まるでトンチ合戦です。どう言えば納得させられるのか。酒場でも似たような会話がくり返されるんですが、メイスンはそこでとんでもない説をぶち上げます。どこからか攻めてきた「亜細亜風の小人」をその11日間の中に閉じ込めるため新暦を採用したという、デタラメな話。「何じゃ、そりゃ?」と思いますが、その場にいた客たちは妙に納得してしまうのが可笑しい。科学も伝説も、人々が腑に落ちさえすれば真実になるんですよ。
その後、メイスンは息子たちとぎこちない再会を果たします。さらに、父親とも再会するんですが、メイスンと父の間には昔から確執があるようです。父は麺麭(パン)職人で、パンは生きていると考えている。滑らかに見えて複雑で細かな穴のあいたパンは一個の世界であり神秘に満ちている、とかなんとか。パンはキリストの肉の象徴でもあるわけで、父親にとってパン屋こそ聖職ということなのかもしれません。

麺麭屋稼業は若きメイスンを怯えさせた。もう麺麭屋としてやって行けるだけのことは学んだけれども、――篤と考えてみると、――様々な匂い、生地の不可解な膨張、神聖なるものを収めた廟の扉のごとき窯の扉を想い、――弥撒(ミサ)のように日々匂いと発酵が繰返される隠れた劇(ドラマ)を想ってみると、――自分が空へと逃げたのは、空が同じことの繰返しだから、空の方が安全に思えるから、麺麭ほど生と死で飽和していないからであったか? 基督の体が麺麭に入れるのなら、他に何が入って来ても不思議はないのでは?――もっと有難くない幽霊に憑かれてもおかしくないではないか? 空虚な早朝、たった一人で、ほんの数秒間だけでも、物云わぬ白い列と一緒に居ると、麺麭の幽霊性にメイスンは圧倒された。

面白いですね。確かにこうして描写されると、自然に膨らむパン生地が神秘的に思えてきます。でも、その不可解さがメイスンには恐ろしいのでしょう。だから「星見人」になることを選んだと。父親がパンに霊的な聖性を感じているとすれば、メイスンは逆にそこにパンの「幽霊性」を見て取るあたりからも、彼の陰鬱な性格がわかります。パン生地が並んでるだけなのに、「物云わぬ白い列」って…。
ところで、メイスンのアメリカ行きには、様々な陰謀が渦巻いているようでもあり、それはただの妄想とか噂の類いのようでもあり。このあたりは、読んでいてもあんまり頭に入ってきません。出てくる名前が多すぎるんですよ。マクスラインやらブラッドリーの息子やら、誰もがうさん臭く思えてくる。んー。


「22」〜「24」の章。
一方、ディクスンはというと、こちらもかつての師ウィリアム・エマスンと再会します。このエマスンって人物もよくわからない人で、弟子たちに念力線に沿って空を飛ぶことを教えてるとか。何よ、「念力線」って?

「羅馬人達は、」彼は翌日の授業で続ける、「水力であれ兵力であれ建築の力であれ、とにかく力を直線に沿って伝える、という問題に囚われておった。念力線は少なくとも彼等の時代から存在しておったのだ、――或いはドルイド教徒が起源かも知れぬが、ミトラ教が出所(でどころ)だと云う者もおる。如何なる宗派がその栄誉を得るにせよ、真っ直ぐな線というものは、或る規模を超えると、その線の近辺で生きる者にとっては然して役に立たず学ぶところもなくなるが、反面その巨大な規則性によって、遠い所に居る観察者にとっては、この惑星上に人類が存在する明らかな徴(しるし)となるのだ。」

確かに、自然界に巨大な直線というのはありえないですね。だから、ナスカの地上絵が高度な文明の証拠だ、と言われたりするのでしょう。それにしても、「線」です。線は力を伝えるものである。線の近くにいる者にとっては、線は役に立たない。メイソン・ディクソン線がこのあと出てくるであろうことを考えると、直線について言及されるこのシーンは、押えておいたほうがよさそうです。
さて、エマスンとディクスンにメア神父という人物が同席しているんですが、彼はディクスンを耶蘇会のスパイとしてアメリカに送り込みたいようです。メイスン側同様、こちらでも陰謀が渦巻いている。もちろん、ディクスンはまったく乗り気じゃありません。曰く、「何だって、性交(ファック)はなし?」。要するに、禁欲なんてまっぴらだと。ディクスンのこういう率直さは、好感が持てますね。
三人はこのあと、酒場へ流れます。そこで、メア神父がイタリア仕込みの「伊太利焼」を振る舞うシーンが出てきます。でも、残念なことにトマトがない。というところで、ディクスンがケープ・タウンから持ち帰ってきた「野菜煮醤」が役立つ。と、あえてルビなしで書いてみましたが、「伊太利焼」はピッツァ、「野菜煮醤」はケチャップです。柴田さん楽しんで訳してるんだろうな。ちなみに、ピンチョンによれば、これが英国初のピザだとか。はいはい、また始まりましたよ、ほら吹きが。
さらに、この酒場には、狼男の青年ラドとその母親マ・オフリーも訪れる。狼男の迷信は「息子の思春期の始まりに対する母親の動揺」からきてる、なんてことが書かれていますが、ラドの変身はちょっと妙です。酒場に現われたときは「ガルルルル!」としか言わなかったのに、満月を見ると…。

「あたし、変身の時が耐えられないんです、」マは嘆く。「見るのが益々辛くなってきてるんです、でも母親ですものねぇ、見なくちゃいけませんよねぇ?」
「変身してるぞ、」ホワイクが中に留まっている皆に向って叫ぶ、「――先ず歯、次に鼻、それから爪、――今度は髮だ、よし、うん、これで二本足で立った、――衿飾(スカーフ)を巻いて、締金(バックル)を締めて、さあお出ましだ、――若旦那ラドウィック、――」
颯爽とした足取りで、綺麗に髭を剃った、些か痩せ気味の若者が入って来る、銀の錦織(ブロケード)に身を包んだダラムの伊達男、其処ら中で中国式の留金が明るい金色に光って対比(コントラスト)をもたらし、――頭部の装飾としては、妙な角度に傾けた帽子から、細長い緑色の鸚鵡の羽根が、ここまで長く伸びた羽根は前代未聞と思えるほど長々と伸びている。「母上!」と変身を遂げたラドが声高に云う。

「うん、これで二本足で立った」というところで、これまでラドは四つ足だったとわかります。ということは、今まで狼だったの? つまり、ラドは満月になると、伊達男に変身するんですよ。ふざけてますね。逆狼男。そして、田舎のお母ちゃんであるマ・オフリーは、洗練された洒落者の息子が理解できずに困惑してるというわけです。野山で駆け回ってた男の子が、思春期になっていきなりパンクファッションに身を包む、みたいなことでしょうか。
そして、ディクスンはロンドンへ向かう石炭船に乗り込み、深い霧の中でアメリカに到着する幻影を見ます。もうすぐですよ、もうすぐアメリカ行きです。


「25」の章。
ロンドンで再会するメイスンとディクスン。「別に合意を交わした訳ではないが、まあ折角だから今夜は飲むか」と、酒場へ。それにしてもこの小説、ことあるごとに酒場で飲んでますね。もちろん、酒場で交わされるのは与太話。
二人の会話は例によって、噛み合ってるようないないようなものですが、話題の中心はまたしても「陰謀」です。

「判りませんねえ、どうしてわし等をまた雇ったんでしょうかねえ……?」
「私にも判らん。だが向うは、私達が判っているものと決めておる。あの二人には自分達と同じくらい黒い肚(はら)があるのだ、そう倫敦じゃ勝手に思っているのだ。そうとしか考えられん、でなけりゃあんなにややこしく立回る筈がない。実は此方には黒い肚など毛頭なくても、――例えば君だ、こう云っちゃなんだが素直な丘育ち、純朴な北東人(ジョーディー)で、――」
「うぅ、そうですねえ、――でもわしだって陰謀とか知らない訳じゃありませんよ、ビショップまで行けば十分です、ステーンドロップにだってたっぷりありますしね、――だけどまあ倫敦の人はほんと、いっつも見張ってますよねえ、此方の一挙一動、顔の引き攣り、その一つ一つから、有るか無いかも怪しい意味を読取って、――」
「単純な比喩ってものを、奴等はごく最近発見したばかりなのさ……。で、此方は、彼方を侮辱したってことにされたのを今頃になって知る、――或いは裏で札付き呼ばわりされ、陰口を叩かれ、――どの一言、どの仕種がその原因になったのかも一向に判らぬまま……」
「何もかも、田舎者め、ってことで片付けられちまうんでしょうねえ……?」

二人の口を使って、ピンチョンは「裏の意味なんかないよ」と言ってるように読めます。陰謀はいつだって、読み取る側が勝手に妄想を巡らすだけのこと。本当のところは、「有るか無いか」わかりっこない。
僕はここで、読書のことを考えてしまいます。行間に意味を見つけ、いくつものエピソードに張り巡らされた見えない糸を解きほぐす。どこかに陰謀が隠されているにちがいないと、目を凝らし鼻をひくひくさせるように、小説を読み進んでいく。でも、陰謀なんてないのかもしれません。いや、あるかないかは、読者に委ねられているのです。
というところで、第一部がようやく終わります。したたかに酔った二人の会話で、締めくくられる。

「(前略)実は君が何を話してるのかよく判らんのだがな。」
「メイスン、――じゃあ、宗教の話、します?」
「やれやれ。ディクスン。私等、いま何話してるっていうんだ?」

いやいや、僕だって彼らが、そしてピンチョンが、何を話してるのかよく判らんのですが。


ということで、今日はここ(P368)まで。やっと、やっとここまできました! 全体の1/3といったところなのでまだ先は長いですが、次は第二部「亜米利加」です。