『フェルディドゥルケ』ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ【3】


読みづらい章に入っちゃって、わけわからんなあなんて思ってるうちに、10ヶ月が過ぎてしまいました。間、あきすぎ! でも休憩を挟んで読み返してみたら、わからないなりに、面白いんじゃないかと思えてきました。この調子なら読めるかも。ということで、第4章から再開します。


「4 『子供で裏うちされたフィリードル』の前置き」。
まず、この章の冒頭。

筆者は、この真実の回想の続きにとりかかる前に、ひとまずここで本題を離れて、次の章に『子供で裏うちされたフィリードル』という題の物語を収めさせてもらおうと思う。

これまでのは「回想」で、このあと始めるのは「物語」? ってことは、この「物語」は、この『フェルディドゥルケ』の主人公であるユーゼフの作品、ってことになるのかな? いや、「筆者」ってのはゴンブローヴィッチのことか? ああややこしい。
ともかく、作者は、これまでのお話は置いといて、別の話をしたいって言い出すわけです。この章は、次の章に収められる物語の解説とも言うべきもので、何故にそんなことをするのかってな話が延々続きます。
これがまた、うねうねとしたひとり語りで、しかもちょっと観念的な文学論。部分部分は面白いような気もするんだけど、結局はわかったようなわからないような。かなーり読みづらかったです。
なのに、こんなフレーズが出てくるからまいります。

そこで、諸君に尋ねたいのだが、読者というものは――どうだろう、諸君の意見では――一部しか、それも、部分的にしか読んだものを理解せず、また、消化しないのではなかろうか? 一部もしくは一節を読んで、しばらくしてからまた次の一節を読むために、そこでもって中断する。真中もしくは終りからとりかかり、初めのほうへ逆戻りしていく読みかたにしても、たいして珍しいことではない。しばしば、ほんの数節を読んだだけで、面白くないからというわけではなく、なにかただぜんぜん別のことがもちあがったというだけの理由で、投げだしてしまいさえするのだ。

うわ、僕のことですか? お見通しってわけですね。
それにしても、「部分」です。どうやら、作者は、『フェルディドゥルケ』という作品の中に違う物語をパーツとして挿入すること、「部分の土台の上に作品を構築すること」についての意義を語っているようです。

だれかが筆者に非難を投げたとしたら――この部分にもとづく着想は神と真実の名において、着想でもなんでもなく、ただのたわごと、たちの悪いいたずら、人を小馬鹿にする冷笑にすぎず、ただに芸術の厳正な規矩準縄を無視するというばかりでなく、そうした神聖なものを鼻の先であしらって不遜にも嘲笑冒涜するものだという非難を投げたとしたら――筆者は答えよう、そうだ、まさにそのとおりだと。筆者の考えはそれ以外のなにものでもないのだ。そして、あえて断言してはばからないだろう――紳士諸君、筆者は鼻もちならぬ諸君の芸術からはできるだけ遠く身を持していたい。諸君そのものを含めて

お前らみたいになりたくないからやってんだよ、と。パンクだなあ。お芸術の決まりきった形式なんかクソ食らえ、といった感じです。以下、尊大な「芸術」や強圧的な「形式」が徹底的に罵倒されます。
で、ようやくわかってきました。この章は小難しい文学論だと思うから読みづらいんじゃないかな。でも罵倒だと思えば、その饒舌な語り口がだんだん可笑しくなってくる。そう、「笑い」と「怒り」がこの小説の燃料です。それが、語り口をドライブさせ、ぐんぐん突っ走しらせる。物語が停滞しようが、お喋りは止まりません。
そして延々と続くお喋りの中に、この小説全体のキーになると思われるこんなフレーズが出てきます。

永遠の未熟さこそ人の本領なのにほかならない。

ユーゼフの、そしてゴンブローヴィッチの処女作が『成熟途上の記録』っていうタイトルだったことを思い出しましょう。人は誰もが永遠に未熟なんだ、だから身の丈に合わない形式張った芸術に、無理矢理自分を押し込むのは止めたまえ。未熟さを認めるところから始めるのだ。そんな演説をぶち上げます。
なるほど、なんて思ってると、この章の最後に作者が暴走します。え、壊れちゃった?

筆者は今のこの発言にかんする責任は完全にとる覚悟で、まったく真面目に、しかも、諸君らのすべての部分に例外なくもっとも大きな尊敬をよせながら尋ねているのだ。というのも、筆者は、諸君が筆者もその一部であるところの人類の一部である、ということを心得ているからであり、また、諸君がそれもやはり部分であるところのなにかその部分の部分に部分的に参与していることで、筆者がなにかの部分の部分なのと同様のことを知っているからにほかならない。いっさいの部分や分子とともに、われわれはなにかの部分なのだが、そのなにかがほかのなにかの部分で、そのほかのなにかがまたほかのなにかの部分で、われわれは部分の部分の部分の部分の部分の部分の部分の……助けてくれ ! おお、このいまいましい部分どもめ!

何言ってるのか、さっぱりわかりません。わかりませんが、ギャグなんだろうな。ぶぶんぶぶん蜂が飛ぶように、増殖していく「部分」の洪水。「いつまで言うねん」ってツッコミを入れたくなるような過剰さの前では、「意味」なんて取るに足らないことのように思えてきます。


では、「5 子供で裏うちされたフィリードル」、これまでの章とは関係なく挿入されたお話です。
これは面白かった。坂口安吾の「風博士」を思わせる、ナンセンスな短編です。

古今を通じもっとも名声赫々(かっかく)たる綜合家中の綜合家は、疑いもなく南アンナン出身の綜合法学者、ライデン大学高級綜合法教授フィリードル博士であったのである。博士は、高級綜合法の昂揚した精神の羽ばたきに身をゆだねつつ、主として無限加法を用いその活動に従事したが、緊急の突発事に際しては、無限乗法も同様にこれを用いた。しかして、博士の身体的特徴はすべて常人の域を脱し、長身肥躯にして長髯(ぜん)をたくわえ、眼鏡の奥の顔容はつとに予言者の風貌をおびていたのであった。

「綜合家」ってのが何なのかよくわかりませんが、「すべてをまとめあげてしまう人」というようなことでしょう。「無限加法」や「無限乗法」を使うってのが可笑しいですね。このフィリードル博士にはライバルがいて、それがコロンビア大学の偉大なる「分析家」、通称「アンチ・フィリードル」です。こちらは、「減法、除法、とくに、つまはじき法」でもって、すべてを部分に分解してしまうという教授。
綜合家VS分析家。二人の「史上最大の鉄道事故に匹敵する」対決の顛末が、このあと描かれることになります。何だか難しそうな気がしますが、これが思いの他バカバカしい。その対決のさわりを紹介しましょう。

まず分析法博士、この道の達人中の達人が火葢を切った。
「ぎょうざの皮、ぎょうざの皮!」
綜合家がそれに答えた。
「ぎょうざの皮!」
アンチ・フィリードルは声を励まして叫び返した。
「ぎょうざの皮、ぎょうざの皮、すなわち小麦粉、卵、および水の組み合わせ!」
フィリードルは、寸分のためらいもみせず、即座に断固たる答えを投げた。
「ぎょうざの皮、すなわち、ぎょうざの皮として分かちがたく、高等なる存在、それ自身一(いつ)にして最高のものなるぎょうざの皮!」

ああ、バカ合戦です。何故に「ぎょうざの皮」? 大のおとなが、こんなバカげた言い争いをするなんて…。しかし、この争いはどんどんエスカレートしていきます。アンチ・フィリードルは、フィリードル博士の妻に狙いを定め分析を開始。「耳、耳!」「鼻の穴、二つの穴!」「指、手の指、五本の指!」。

おお、指、手の指、指の存在、それがどちら側にも五本ずつ存在するというこの事実。完全に凌辱されつくしたるフィリードル夫人は、なおも残りの力をふりしぼりつつ、手袋をはめるべく必死の努力をかたむけしものの、しかしながら、この刹那――まことに信じがたきこととはいえ、あわやと言うまもなく夫人はコロンビアの教授の手により尿の分析をなされおりたり。分析家は吠えるがごとき凱歌(がいか)のおたけびをあぐ。
「H2OC4、TPS、白血球、蛋白質が少々!」

このせいで、フィリードル夫人は病床につくことになってしまいます。恐るべき、分析法! このあと、綜合家が反撃、それを分析家がかわし、という具合に、格闘技のような技の応酬が続きます。とは言うものの、バカ合戦。やってることは、かなりマヌケです。
さて、最終的に勝利を収めるのはどちらなのか? そもそもこの戦いで勝つことに、どれほどの意味があるというのか…? 最後のバカバカしさも、なかなかの見ものです。


というところで、今日はここ(P179)まで。再開したばかりなので、なかなか書くリズムがつかめなかったりしてますが、まあぼちぼち更新していくので、気長におつき合いください。