『ダーク・タワー IV ―魔道師と水晶球―』スティーヴン・キング【2】


「第一部 なぞなぞ」に行きます。
まずは、疾走する列車、ブレインの外に広がっている光景の描写から始まります。放射能汚染された土地、死に絶えた人々、捨てられたロボットたちや奇形の動物たち…、この物語の舞台背景を、カメラは淡々と捉えてゆきます。

そこでは、モノレールの線路は地上から十フィートもないところまで急降下しており、そして、ほとんど異常の見受けられない雌ジカが四分の三ほど自然に浄化された小川の水を飲むために、松林から愛らしい様子で出てきた。
いや、雌ジカはまともではなかった――彼女の下腹部の中央から五本目の短い脚が乳房のように垂れており、歩くたびにふにゃふにゃとあちこちに揺れている。また、鼻の左側には白濁して盲いた目がひとつ余分についている。

ディズニー風の森の風景に、放射能の毒を一滴。恐ろしげな怪物よりも、愛らしい動物に生えているこのちっちゃな5本目の脚のほうが、グロテスクに思えます。前作『荒地』で『バンビ』を例にお伽話のサディズムについて言及されていましたことを思い出したりして。
ところで、この小説は異世界ファンタジーでありながら、こうした異世界たる描写はあまり多くありません。でも、僕としてはこの世界をもっと見たい。ストーリーに直接関係するわけじゃありませんが、せっかくのファンタジーなんだから、物語世界の構築に凝って欲しいわけです。例えば、こんな描写もいいですね。

頭上では、雲の合間から満月が顔を出し、質屋のけばけばしい看板――金色の三つ玉さながらに小川と開墾地を彩った。満月はなにやら人の顔のように見えた。ただし、恋人たちが見上げたくなるようなロマンチックな類のものではない。キャンドルトンの〈トラヴェラーズ・ホテル〉で見かけた髑髏のような顔だった。言うなれば、いまだに生存しながら狂気じみた闘争に気晴らしを見いだしている、わずかな生き物が眺めるのに相応しい顔だ。世界が変転し始める以前のギリアドでは、〈年末〉の満月は〈妖魔の月〉と呼ばれていた。そして、それを直視することは悪運をもたらすと考えられていた。
しかしながら、もはやそんな迷信など意味がない。というのも、いまでは、妖魔はいたるところにいるからだ。

目次にも「月」が意味あり気に頻出していましたが、まずは「妖魔の月」。満月のイメージが、質屋の看板、髑髏、妖魔と変化していくのが面白いです。そして、締めの一行の決まりっぷり。「いまでは、妖魔はいたるところにいるからだ」。ヒューと口笛を吹きたくなるような、カッコイイ文章。
さて、このあといよいよ「なぞなぞ競技会」が始まります。なぞなぞを出すのは、ローランド、エディ、スザンナ、ジェイクの4人。終着駅のトピーカに着くまで、次々とブレインになぞなぞを出しすべてに答えられてしまったら、4人はブレインもろとも心中しなければなりません。これは、手に汗握る展開です。果たして、このピンチをどう切り抜けるのか? ローランドは、エディに忠告をします。

「――そして、思慮分別に欠けた行為は慎むように。これは生死の問題なのだ。愚行は過去のものと思え」
エディはローランド――年老いた長身痩躯の薄汚い男、〈暗黒の塔〉を探索するという名目のもとに数知れぬほど汚いことを行ってきた男――を見つめて思った。このオッサン、いま、俺たちは断崖絶壁に立たされているというのに、子どもみたいに振る舞うな、ニタニタするな、気のきいたジョークを言うななんて訓戒を垂れるとは、いったいどういう神経の持ち主なんだ。

この『魔道師と水晶球』の扉に、「思慮」と書かれていたことを思い出します。まあ確かにエディは、へらへらしたお調子者です。何かといえばすぐ茶化し、余計なことを口走らずにはいられない、ミスター減らず口。でも、ここでのエディの不満も一理ある。ローランドの厳めしさには、僕もときどきうんざりさせられます。サバイブしていかなきゃならない以上、仕方ないことなんでしょうけど、ちょっとうっとおしい。
ローランドは厳格な父親のようでもあり、ジェイクは出来のいい息子。それに比べると、元ジャンキーのこの青年はあまりに人間臭い。と考えると、読者が一番感情移入しやすいキャラクターなのかもしれません。僕らは、エディ側の人間であり、彼の目を通してこの奇妙な世界を理解するのです。
なぞなぞ大会の様子は、これ以上は書きません。もちろん、この4人が死ぬはずはないんですが、でも、どうやってブレインを打ち負かすのかは、読んでのお楽しみってことにしておきます。ちなみに僕としては、大満足の展開でしたが。
ということで、ひとまず一行はトピーカの街に到着します。そして、そこに「カンザス州」の標識を見つける。ん、カンザス? この異世界に何故、カンザスが? どうやら、彼らは「アメリカ」に迷い込んでしまったようです。しかも、街には人っ子一人いない。ジェイクは売店で新聞を見つけ、読んでみます。そこには、こう書いてありました。

超インフルエンザ“キャプテン・トリップス”猛威をふるう
  政府首脳陣、お手上げ状態
  トピーカ病院は治療を求める
  無数の病人や瀕死の患者で大混乱

日付は「一九八六年六月二十四日」。これが、最後の新聞だったのでしょう。そしてその後、人類はほぼ全滅してしまったらしい。
ってこれ、『ザ・スタンド』じゃないですか! 『ザ・スタンド』は、インフルエンザで滅亡しかけた世界を描いた、キングの2番目に長い小説です。もちろん、1番は、この「ダーク・タワー」シリーズ。この「ダーク・タワー」は、キングの他の作品とリンクしてるとか。なるほどね。例えば、『ザ・スタンド』には、乗り捨てられた車で道路がいっぱいになっているというシーンがあります。そして、『魔道師の水晶球』でスザンナが見ているのも、同じ光景のようです。

だれかがレッカー車で移動したのね、とスザンナは考えた。そうした推測は彼女の気分を明るくした。疫病が猛威をふるっているあいだは、だれも高速道路を車が通過できるようにしようとは思わない。もし、だれかがその作業をしたのであれば――もし、だれかが“生き残って”その作業をしたのであれば――疫病はすべての人間の息の根を止めたのではないことになる。物語は死亡者の名前の羅列で一巻の終わりということではないわけだ。
(中略)ほとんどの車がもぬけの殻だった。交通渋滞に巻き込まれた多くの運転者や同乗者は、おそらく、徒歩で疫病地帯から脱出を試みたのだろう。しかし、スザンナの思うに、かれらが車の外に出て歩いたのは、それだけが理由ではない。
(中略)けれど、どうせ死ぬのなら、広々とした野外で命つきたい。死に場所としては丘がベストだ。どこか小高いところがいい。麦畠でもいい。バックミラーに吊り下げられた芳香剤の匂いを嗅ぎながら咳きこんで息絶えるのだけはごめんだ。

目の前にある車から、様々に想像をめぐらせているシーンです。スザンナの洞察力は、なかなか鋭いですね。なるほどと思わせるものがあります。確かに、死ぬ瞬間は、芳香剤の匂いよりも草や風の匂いを嗅ぎたいですよね。ストーリーの本筋とは関係ない部分ですが、こういう細部は魅力的です。
ちなみに、このカンザスは、ローランドの世界とも、ジェイクの世界とも違う、パラレルワールドアメリカということになっているようです。エディやジェイクがいたアメリカとよく似ているけど、若干違う。例えば、ジェイクの世界にはなかったファーストフードがあったりします。その名も、「ボン・ボン・バーガー」。うーん、ありそでなさそうな上手い名前。これも、魅力的な細部の一つです。
さて、キャンプファイヤーを囲んでの夜語りの時間が、またしてもやってきます。今回語るのは、ローランド。思い出すのも辛い、自らの青春時代の物語を仲間に聞かせようとしています。

「おまえたちに聞く必要があるのかどうか定かではないが、俺には話す必要があるのだ。我らが未来は〈暗黒の塔〉であり、心をひとつにしてそこに向かうためには、俺はできるかぎりよい方法で自分の過去にけりをつけなければならん。その話の全容をつまびらかにすることは不可能だ――我が世界においては、過去さえ変容しており、活力に満ちた様々な方法でそれ自身を再編成している――が、俺が語るひとつの話は、話の全容をもうかがい知れるようなものとなるだろう」

ローランドが「話す必要がある」と言ってるってことは、キングが「話す必要がある」と思っているということです。この先、暗黒の塔を目指す僕ら読者もまた、ローランドの過去に耳を傾けなければなりません。
こう語るローランドに対して、ジェイクとエディが面白いことを言っています。

「それって西部劇かな?」不意にジェイクがきいた。
(中略)
「西部劇だろうよ」エディは言った。「その点にかんしては、ローランドの話はなんだって西部劇さ」

でも、西部劇って何なんでしょう?


ということで、今日はここ(P254)まで。
上巻の半分くらいまできましたが、なぞなぞ列車、超インフルエンザと、盛り沢山。そしていよいよ、これまでほのめかされていたローランドの過去が明かされます。