『三つの小さな王国』スティーヴン・ミルハウザー 【1】

三つの小さな王国
次の本にいきたいと思います。
前回予告したように、
『三つの小さな王国スティーヴン・ミルハウザー
です。
これ、買ったのはもうずいぶん前。ミルハウザーだからきっと好みだろうなと思っていたんですが、最初のきっかけを逃しちゃって今日まで読まずに積んでありました。こーゆー積読本を読むきっかけになればというのも、このブログの動機だったりします。
僕の手元にあるのは白水社のハードカバーですが、その後、白水Uブックスという新書サイズのシリーズでも出ています。こっちのほうが、手に入りやすいんじゃないかな。訳は、みんな大好き柴田元幸。「J・フランクリン・ペインの小さな王国」「王妃、小人、土牢」「展覧会のカタログ」という3つの中編小説が収められています。


では、最初のお話「J・フランクリン・ペインの小さな王国」からいきましょう。3つの中編の中では一番長く、この本の半分を占める作品です。


まず、第I章。
1920年7月、夜更けにニューヨークの自宅で、新聞漫画家であるジョン・フランクリン・ペインが、仕事の手を休めふと顔を上げるところから始まります。そして、フランクリンは、「秘密の、胸躍る仕事」にとりかかります。

その最後のライスペーパーの右下隅にていねいに番号を書き入れ、今夜作った三十二枚のドローイングの山に載せた。一枚一枚が、すぐ前の絵を正確に模倣しつつ、ごくわずかに逸脱している。ドローイングをビューアーで詳しく見る前に、まず墨を入れてボール紙に貼らなくてはならない。墨入れを終えたドローイングはこれまで一八二六枚、ほぼ三か月かかった。一秒十六コマだから、四分のアニメーション漫画には四千枚近く必要だ。

そう、彼は、アニメーションを作ろうとしてるんです。しかも、紙に手描きで! 要するにパラパラ漫画の要領ですね。それにしても、たった4分のアニメーションのために4000枚の絵を描かなければならないとは! それを、新聞漫画の仕事が終わったあと、夜更けに一人でしこしことやってるわけです。気が遠くなるような作業。ついでに言うと、現在の映画は1秒24コマです。1秒16コマってのは、サイレント時代。つまり、これはアニメーション創成時代の話なんですね。
フランクリンはどうにも落ち着かず、蒸し暑いアトリエの窓から抜け出し屋根に上ります。静かな夏の夜更けです。そりゃ、何とも言えないうずうずした気持ちになるでしょうよ。でも、これは彼の夢の中のできごとのようにも思えます。作者ミルハウザーは、わざと空想と現実の境目がわからないような書き方をしている。
この屋根の冒険のシーンはすごくいいです。みんな眠っている中、彼一人だけが起きて動いている。

ゆっくりと指先を引きずるくらい体を折り曲げて、月に照らされた、入り乱れた屋根の頂や谷間を進んでいく。まるで自分が、魔法をかけられて月から降りてきた訪問者であって、町並みの作るでこぼこの上を歩いているような気分だった。一度は水切りの溝に足を滑らせ、一度は屋根の頂にまたがって座り込み、また一度は、ほっそりと背の高い煙突の前を通り過ぎた。

青い夜、月明かりに浮かぶシルエット。「町並みの作るでこぼこの上を歩いている」ってのがいいです。連なる屋根を地面に見立てている。でもこれ、何だかずいぶん引いた位置から自分を眺めているような表現だと思いませんか? まるで、アニメーションの中にいるみたいです。もしくは、夢。夢の中って、自分の行動を外側から眺めることがよくあります。うーん、やっぱり、夢のシーンなのかも。でも、これは結論を出さないほうがいいですね。おそらく、フランクリンの中では、夢と現実は溶け合っているんだと思います。


第II章です。
この章では、フランクリンのこれまでの生涯が語られます。オハイオに生れた少年時代から、学生時代、新聞社への就職、妻コーラとの出会い、娘ステラの出産、ニューヨークへの移転。そして、そのどの部分でも、魅力的な細部がたっぷり描かれています。
順に見ていきましょう。少年時代の思い出として語られる父と写真を現像するシーン。フランクリンは、現像液に浸した紙をトングで押さえています。

紙はまだ空白である、が、期待に胸を張りつめて見守っているうちに、そこにわずかな動きが生じるのが見えてくる。何かが表面にのぼってきて、白さの深みの奥から、絵が徐々に現われてくる。ここの縁、そこの灰色の点。幽霊のような腕がシャツの袖から出てくる。白さのなかから闇はますますはっきりと、ぐんぐん速度を増してのぼってくる。すさまじい勢いで、生命がほとばしり出てくる――そして突然、フランクリンは自分が居間の絨毯に座って船のパズルの一片を取ろうと手を伸ばしているのを見る、

白さの上に闇が現われてくる。これは、映画のスクリーンとそこに映し出される影を思わせます。そして、その闇の変化に「生命」を見ている。アニメーションの語源は、「animate=生命を与える」です。アニメーション作家フランクリンの原点がここにあるという気がします。さらに、そこに浮かび上がるのはパズル遊びをしている自分の姿です。こことは別の、もう一つの世界がそこにある。ここでもミルハウザーは、ちょっと不思議な書き方をしています。まるで、自分が二つに引き裂かれているような感覚って言ったらいいのかな。自分を見ているもう一人の自分。これは、前章の屋根のシーンによく似ています。
先に行きます。学生時代、フランクリンが街をぶらつくシーンです。彼の目に映るものが、次々と列挙されていきます。

広々とした大通りをそぞろ歩きし、店のウィンドウに飾った、黒い革の蛇腹とオートマチック・シャッターのついたカメラや、銀メッキを施したケースに機関車や角を生やした雄鹿などを彫った竜頭(りゅうず)巻きの懐中時計を見るのも楽しかった。口ひげを生やし、ストライプのスーツにパナマ帽をかぶってステッキを小脇に抱えたマネキン。ぴかぴかの真鍮のラッパがついた蓄音機や、樫とマホガニーのキャビネットのなかにラッパを隠した、百枚のレコード盤を収納できる新製品。艶々としたエナメルの爪革(つまがわ)がついて、折り返しの部分はクリーム色の仔牛革を使った、流行のスタイルの婦人用ブーツ。ぴかぴかに光る白い琺瑯(ほうろう)製の洗面台や浴槽。いかにも都会風のドラッグストアのウィンドウに、練り歯磨きやポマードや、ビロードを内側に貼ったケースに収まった自動研ぎ機能つき安全カミソリや、種々のエキゾチックな香り(オレンジの花、刈り立ての乾草、夜に咲くサボテン、イランイランノキ、ビャクシ香、パチョリ)をたたえた香水壜が並んでいる眺めも好きだった。

長い引用になっちゃいましたが、この描写はそれだけですごく魅力的な商品カタログになっています。モノそれ自体の魅力って言ったらいいのかな。消費することよりも、モノを愛でる楽しみですね。それから、これがショーウィンドウの光景だというところにも注目したい。フランクリンは、徹底的に「目の人」です。しかも、細部を細かく眺める人。
そんな彼のお気に入りの場所が、「十セント博物館」と呼ばれる見世物小屋です。ここで、彼のもう一つの嗜好、「奇怪なもの」や「不思議なもの」への興味が描かれます。現実よりも夢、「ここじゃないどこか」への嗜好です。
次は、のちにフランクリンの妻となるコーラとの出会い。

わずかに震える鼻孔、頬のほのかな赤味、帽子の縁で揺れているサクランボ、それらすべてが彼の心に強い印象を残した。

ある日曜の午後、イーデン・パークを散歩していると、コーラが池でスケートをしているのを見かけた。青いウールのコートを着て白いマフラーを首に巻き、羽毛のような息をうしろにたなびかせている。

ほらね。彼の心に残るのは、いつも目に映るものばかりです。
コーラはフランクリンの求婚を受け入れるものの、彼の漫画やアニメーションに賭ける想いを理解しようとしません。娘ステラが産まれ、オハイオからニューヨークに引っ越しても、それは変わらない。第1章でさりげなく、彼女の寝息が「そっとやすりをかけるような」と描写されていたことを思い出します。つまり、ちょっと緊張感があるんですよ、この夫婦は。微妙な不協和音というか。コーラはフランクリンに対し、どこか冷たくイライラしている女性として描かれています。
でも、どうなんでしょ。帽子の飾りやマフラーの色を覚えていても、彼女の内面についてフランクリンはどこまでちゃんと見ていたか、大いに疑問です。そのことを彼女は敏感に感じ取ってたんじゃないかなという気もしてきます。


それにしても、「アニメーション」、「1920年代のアメリカ」、そして非現実と現実が溶け合うような描写と、僕好みの要素がてんこ盛りです。これは舐めるように読みたいタイプの小説ですね。
ということで、今日はここ(P33)まで。まあ、じっくりいきましょう。