山尾悠子歌集『角砂糖の日』について


『夢の遠近法』に絡めて葛原妙子という歌人についてちょこっと触れましたが、彼女のことを「幻視の女王」と読んだのが歌人塚本邦雄。幻視の女王とは、山尾悠子にも当てはまりそうな呼び名ですね。そして、山尾悠子による『夢の遠近法』自作解説には、塚本邦雄を「血道を上げて読み耽っていた」との記述があります。塚本邦雄も葛原妙子も「前衛短歌」と呼ばれる歌を詠んでいた歌人です。おそらく、山尾悠子はこの前衛短歌に傾倒していたのでしょう。
実は山尾悠子自身も『角砂糖の日』という歌集を出しています。この歌集、とっくの昔に絶版で『山尾悠子作品集成』にも収録されていないんですが、僕は10年前くらいに偶然見つけて入手しました。せっかくの機会なので、その中からいくつか紹介します。
歌集は、「跳ねる兎」「蘭の火」「記憶街」の3章に別れています。ルビは()で表記するとわずらわしいので、注釈として※で表記しました。


「跳ねる兎」

百合喇叭そを枕として放蕩と懶惰の意味をとりちがへ、春
 ※喇叭=ラッパ 懶惰=らんだ
腐蝕のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸
幾何学の町に麺麭買ふ髭をとこπの算術今日咲き継がせてよ
 ※麺麭=パン π=パイ
狼少年と呼ばれて育ち森を駈けかけぬけて今日罌粟の原に出ぬ
 ※罌粟=けし
小花小花零る日を重ね天文と地理のことなど見分けがたきよ
 ※小花=おばな 零る=ふる

一首目。ラッパ百合を枕に。これって、耽美主義宣言ですね。枕の用をなすかどうかは知ったことかと。それが、放蕩か懶惰かわかりませんが、「生活なぞは召使に任せておけ」と言わんばかりに惰眠むさぼる春。
二首目。酸性雨のことを詠んでいるんですが、「腐蝕」「慈雨」「弱酸」とそれを示す単語が雨だれのように飛び飛びで落ちてくる。朽ちていく寺院が「かほれる」というところに、滅びの中に美を見る視点を感じます。
三首目。「もっと幾何学的精神を!」ということでしょうか。非常に人工的な歌。「パン」と「パイ」が響き合い、円周率が植物のように蔓を伸ばして咲いていきます。
四首目。「狼少年」には、「嘘つき」と「狼に育てられた子供」の二つの解釈がありますが、ここでは両方の意味を重ねて、嘘つき少年が狼のように森を駆けると読みたい。ちなみに、罌粟はアヘンの原料になる植物です。
五首目。「おばなおばな」と花散るような6音のリズムでゆったりと始まります。花びらにぼやけていく天と地の境界。それは、学問の言葉では記せない美であると。


「蘭の火」

春眠の少年跨ぎ越すと月昏らむ いづこの森やいま花ざかり
韃靼の犬歯するどき兄ありき娶らずば昨日風の野に立ちしよ
 ※昨日=きぞ
曠野の地平をさびしき巨人のゆくを視つ影うすきかな夕星透かし
 ※夕星=ゆふづつ

一首目。一文字空きで、意識がポンと森へ飛ぶ。月が陰るのも、夜の森に花が咲き誇るのも、少年を跨いだせいでしょうか。すべては、幻想の因果律でつながっているのです。
二首目。「韃靼」はモンゴル系の部族の名前。「兄」は血縁上の兄ではなく、古語では親しい男性を呼ぶときに使います。「犬歯」の荒々しさと婚姻を拒否する潔癖さが、モンゴルの風に吹かれている。
三首目。荒野を行く巨人の幻影。「夕星」は宵の明星のこと。体は大きくても、星が透けてしまうほどその姿は薄い。それはまるで、巨大な孤独のようです。「うすき」「ゆうづつ」「すかし」とウ段の音の重なりが、美しい。


「記憶街」

金魚の屍 彩色のまま支那服の母狂ひたまふ日のまぼろし
 ※屍=し
角砂糖角ほろほろに悲しき日窓硝子唾もて濡らせしはいつ
 ※角ほろほろに=かどほろほろに 唾=つ
曼珠沙華 幻燈の野には禽殺しわろき狐ぞその禽恋ひてき
絵骨牌の秋あかあかと午後に焚く烟れば前の世なる紫色
 ※絵骨牌=えがるた 焚く=たく 烟れば=けぶれば 前=さき 紫色=むらさき
独逸語の少年あえかに銀紙を食める日にして飲食のこと憂し
 ※食める=はめる 飲食=おんじき

一首目。金魚の柄か、それとも赤い服か。いずれにせよそれを「死骸」として捉えているところが不穏です。「彩色」「支那服」「まぼろし」と繰り返される「シ」の音に、すべて「屍」が張りついている。
二首目。少女時代の思い出でしょうか。角砂糖が崩れていくほどの時が流れてしまった。「砂糖」「窓硝子」「唾」と透明感のある単語が、記憶の中でほろほろとこぼれていきます。
三首目。おとぎ話の悪い狐は、実は鳥に恋をしていたのかもしれません。それはもう、食べちゃいたいくらいに。そんな幻燈の中に、禍々しい曼珠沙華の花。
四首目。カルタを火にくべると、炎の赤が紫の煙へと変わる。「前の世」の「さき」は「紫色」の「さき」。音に誘われて、生まれる前の遠い記憶が煙の中に浮かぶのです。
五首目。「銀紙を食める」とは、肉体的なるものへの潔癖なまでの拒絶です。成長なんかしたくないし、性徴なんか欲しくない。これも一つの耽美主義。「独逸語の少年」は、『ブリキの太鼓』のオスカルかもしれません。


以上、13首選んでみました。現実世界に背を向けてひたすら言葉で世界を作り出すという山尾悠子のスタイルは、短歌でも発揮されています。13編の掌編小説のように読んでみてください。