『空気の名前』アルベルト・ルイ=サンチェス【6】


捉えどころのないものはピンポイントでつまみ上げることができません。だから、周りの空気ごとふわっと捕まえ、指の隙間から覗いたらまたふわっと放さなければならない。この作品はそんな風にして書かれています。核心になかなかたどり着くことなく、螺旋のように迂回を重ねながら、淡い描写を重ねていく。そこに生まれる、あえかなる幻想性にすっかり魅了されてしまいました。
捉えどころのないものとは、例えば、大人になりかけの少女の中に生まれる欲望です。何だか胸がざわつく。気分がけだるく集中できない。私の知らない私が内側で息をひそめている。そんなかすかな疼きを描くために、ルイ=サンチェスは町を流れる空気をまるごと捕まえようとします。塩の薄板を舞い上がらせ、ドラゴンの風見鶏を吠えさせ、にせものの夕焼けを運んでくる空気。
この町の描写がいちいち僕好みで、海に面した城壁、渦巻く大通り、桟橋に停泊する売春船など、ゾクゾクさせられます。具体的に描かれていなくても、白い漆喰の壁、砂混じりの風、女たちがまとう色とりどりの布、香辛料の匂い、おしゃべり好きの人々などなど、ざわめく町の雰囲気が伝わってくるようです。
ファトマの中心に欲望があるように、町の中心にはハンマーム(公衆浴場)があります。この浴場の場面の素晴らしさには、本当にやられてしまいました。とっても官能的。と言っても、性的な場面がことさら強調されているわけじゃありません。でも、言葉の喚起するものが、いちいち感覚に訴えかけてくる。
視界を遮る湯気、反響する声や水音、塩辛い汗、鼻をかすめる薬草の匂い、そして体にまとわりつく湿気。五感を刺激するから、官能的なんですよ。つまり、ファトマは今、まさにこうした官能に開かれようとしているということでしょう。そして、読んでいる僕もまたファトマのかすかな疼きを追体験する。
町の官能と少女の官能が、そして読むことの官能が重なり合う。でもそれは、空気に溶けてすぐに散っていってしまう。
その官能を物語として捕まえておくことはできないだろうか? できるとも言えるし、できないとも言える。語る者によって、それは別物になってしまうから。後半、この作品は物語についての物語という様相を呈してきます。語られることによって変わり、伝えられることによって変わる。
でも、物語られることで、それを聞いたの人物の中にうっすらとした残り香のようなものが、かすかに響くエコーのようなものが、通りすぎる影のようなものが残される。その営みこそが官能的なんです。はかなく捉えどころのないものが、ファトマの中に生まれ、この作品を読んだ僕の中にも生まれます。何かの拍子にふいにそれが浮かび上がり、ふうとため息が出る。
この得体の知れないかすかなざわめきやはかない影を、呼び戻すことができるように、そうだ名前をつけておこう。「空気の名前」とは、そういうことなのかもしれません。


ということで、『空気の名前』はこれでおしまいです。遠くを見つめるような気持ちで、そっと本を閉じましょう。